樋野興夫ブログ 「がん哲学学校」

第212回「がん哲学学校」
新島襄 & Paul Tournier 〜人生の不思議な邂逅の物語〜

2017年04月24日


Educational Seminar in HAKODATE(函館五稜郭病院に於いて)で、特別講演『がん哲学外来〜医療者の2つの使命〜』をする機会が与えられた。講演に先立ち、院内のキャンサーボードが開催され、チーム報告(緩和ケアチーム、がん化学療法チーム、がん相談支援室、放射線治療科、がん登録チーム)、領域別 CB報告(呼吸器キャンサーボード、頭頸部キャンサーボード、消化器キャンサーボード、乳腺キャンサーボード、泌尿器・生殖器キャンサーボード)を拝聴した。病院長・医療者・職員全員の参加で、大いに感激した。素晴らしい病院である。夕食会では、函館の歴史的・現代的意義について、深く考える機会が与えられた。

『新島襄海外渡航の地碑』のある函館で静思した。新島襄は、当時(1864年)禁止されていた海外渡航(アメリカ合衆国)を思い立ち、開港地の箱館に行く。箱館に潜伏中、ニコライ・カサートキンと会う。ニコライ・カサートキンは新島襄から日本語の手ほどきを受け、密航に協力したと言われる。箱館港から米船ベルリン号で出国する。上海でワイルド・ローヴァー号に乗り換え、船中で船長 Horace S. Taylor に会う。1865年7月Boston着。ワイルド・ローヴァー号の船主・A.ハーディー夫妻の援助をうけ、Phillips Academy に入学。1867年に Phillips Academy を卒業。1870年に Amherst College を卒業(日本人初の学士の学位取得)。Amherst College では、後に札幌農学校教頭となる William Smith Clark から授業を受けた。William Smith Clark にとっては最初の日本人学生であり、この縁でクラークは、来日することとなった。そして、密航者の新島襄が、初代の駐米公使となった森有礼によって正式な留学生として認可された。1872年、アメリカ訪問中の岩倉使節団と会い、そこで、木戸孝允は、新島襄の語学力に目をつけ通訳者として、使節団に参加させたのである。

函館往復の飛行機の中で、スイスの医師:Paul Tournier の本を熟読した。想えば、1977年来日の Paul Tournier の神戸(兵庫県民会館に於いて)での講演を、前列で、目の当たりに聴講したのが鮮明に甦る。その時の学びである『医師の2つの任務〜学者的な面 & 患者と温かい人間としての関係を築く〜』が、2008年に始めた「がん哲学外来」の起点である。人生の不思議な邂逅の物語である。

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第211回「がん哲学学校」
『この国の明日を想う』〜「もしかすると、この時のため」〜

2017年04月17日


「がんサロン会津」(主催:がんピアネットふくしま)で、講演する機会が与えられた(会津医療センターに於いて)。会場は満席であった。会津周辺を訪れるのは、猪苗代の「野口英世記念館」訪問以来で何年ぶりでのことであった。

今春入学した順天堂大学医学部大学院生博士課程で、Basic Course『がん学(Basic)』の授業を担当した。{「大変感銘を受けました。」、「非常にユーモアあふれる授業で楽しかったです」、「造詣に富んだお話で非常に興味深く拝聴しました」、「人間性を重視した内容で、とても面白かったです」、「Fantastic lecture」}等々、大変心温まる、勇気づけられるコメントを頂いた。感激した。
California School of Professional Psychology (CSPP:アライアント国際大学・カリフォルニア臨床心理大学院) の日本校臨床心理学研究科の東京キャンパス(文科省指定 大学院の臨床心理学研究科としての「外国大学日本校」)で『「がん哲学外来」こころカフェ』で講演する機会が与えられた。教室は満員であった。

元検事総長:原田明夫氏の前夜式(2017年4月14日、青山葬儀所)にwifeと参列した。多数の参列者であった。「余人を持って代え難し」の故・原田明夫氏の人格には改めて感動した。まさに『この国の明日を想う』人物であった。柳田邦男氏との新刊『人の心に贈り物を残していく』(悟空出版)は追悼記念でもある。

『がん哲学外来創設医師の問いかけ〜人生の価値は、最後の5年間をどう生きるかで決まる〜』(Svenson主催;博多に於いて)で講演する機会が与えられた。患者、市民、医師、看護師、新聞記者など、多数の参加者で、会場は大盛況であった。がん患者との個人面談も行った。スタッフとの語らいの懇親会では、{「がん哲学外来 明太カフェ」の開設、「チャウチャウ犬の風貌」、「リーダーシップの在り方」}等々の話で、大いに盛り上がった。残念なことに、翌日の対馬での『地域包括ケア研修会〜対馬メディカルビレッジの構築にむけて〜』は、対馬空港の霧の為、飛行機が欠航となり、参加が不可能となった。しかし、対馬市 いづはら診療所 所長 桑原直行先生が「もしかすると、この時のため」に見事に代行して下さった。涙なくして語れない想い出となった。

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第210回「がん哲学学校」
元検事総長:原田明夫氏の逝去〜『勇ましき高尚なる生涯』〜

2017年04月10日


元検事総長:原田明夫氏が、逝去された(2017年4月6日)。痛恨の極みである。昨年12月、wifeとお見舞いに行き、お逢いしたのが、今生の別れとなった。Wifeと1999年法曹会館での、原田明夫氏ご夫妻との出会いと語らい、2000年『新渡戸稲造 武士道100周年記念シンポ』は、筆者が「陣営の外」に出る、大きな人生の邂逅となった。さらに、ご退職の2004年に、国連大学で『新渡戸稲造 5000円札さようならシンポ』を一緒に開催したのが走馬灯のように駆け巡ってくる。

思えば45年前、一人の人物に出会った。そして、南原繁を学んだ。また、「将来自分が専門とする分野以外の本を、寝る前に 30分 読む習慣を身につけよ」とも教わった。それで、南原繁の本を読み、そして、南原繁の師である内村鑑三・新渡戸稲造の本も、細々と、寝る前 30分読み続けた。そうしているうちに、原田明夫氏との不思議な出会いが与えられた。『新渡戸稲造生誕140年』(2002年)、『新渡戸稲造没後70年』(2003年)も一緒に、企画する機会が与えられた。

新渡戸稲造は「君に求めていることはそんなことではない、理想を語れ」と児玉源太郎に言われたとのことである。その時に、新渡戸稲造は、「なんとスケールの大きい人物であることか」と述べている。それと同じような気持ちである。「先人の志を継承する」基本的な心構えは、「大いなる人物の、収穫物というものは、存命中に、実を結んだものだけではないことを覚えておかなければいけない。ゆえに後世に生まれた我々が、これを温故し創新することによって現代に貢献出来る、そして先人が求めた一つひとつの命題は、今日の命題であり、将来のそれでもあろう。所詮、我々は畳1枚の、いや、座布団1枚の墓場しか残らない。残るのは『勇ましき高尚なる生涯』である」の実体験である。
 
「歴史の動脈」は人物を通して流れるものである。たった一人の登場で世の中の流れが変わるのは「歴史」だけでなく、生命現象からも語れる普遍的なテーマであろう。昨年は、恩師、菅野晴夫先生、Alfered G. Knudson博士を失い、今年は、原田明夫氏を失った。この3人との出会いは、筆者にとっては、階段を昇る如く、自分の身長が伸びたと思える、人生の不連続の連続性の邂逅であった。

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